1560年(永禄3)、尼子晴久が死去すると、毛利元就は尼子攻略のため出雲国へ大軍を進めました。瀬戸山城では、毛利軍襲来を前に交戦か降伏かで評議が行われていました。「今、毛利の大軍を相手に戦っても利なし」との結論に達した瀬戸山城でしたが、尼子氏への忠義を貫くべきだと主張し、城を出て毛利方に戦いを挑んだ二人の武将がいました。烏田権兵衛勝定と森田左衛門勝経は一族らを引き連れ、賀田城や突根尾原を拠点に反乱軍を組織しました。毛利軍に攻撃を仕掛け、進軍をたびたび妨害しましたが大軍の前に烏田は討たれ、反乱軍も鎮圧されました。